聖書の主

---------------------------------------------------------------------------------

「聖書を渡したって、もう命はないから助けてやることもできないわね。せいぜい神に救われることを願いなさい」

 “彼女”はカウンターを回り、倒れた客を足で蹴った。死んでもなお、手にした聖書を離そうとしない男の考えを、“彼女”は理解することができなかった。あるいはこういうものを愛する流華なら、その気持ちを理解することができただろうか。“彼女”は聖書を男の手から奪い返して思う。

 No.

 流華に“男の気持ち”は理解できない。流華には誰の気持ちも理解できない。流華はそれでいいのだ。“彼女”の考えに呼応するようにして、胸の奥で静かな声が聞こえた。その声は“彼女”に“彼女の役目”を全うするように促している。“彼女”は聖書をカウンターに置いたまま、優雅に着物の袖を翻して店の外へ向かう。

「……分かっているわ、ユダ。外も片付けるわよ」

 面倒のないように、後は全て店の外で片付けなければならないだろう。着物の汚れも気にしなければいけないから、こういう時は正直気が重い。できれば最初から、“彼女”の出番だと分かっているような場合の方が、服もそれなりのものを用意するのだが。

「でもまぁ、久しぶりの出番ですもの。楽しませてもらうわ」

 “彼女”は流華の顔で、流華にはできない表情を浮かべた。それは野生の肉食獣が、獲物を見つけたその一瞬だけ浮かべるような、恐ろしくも嫣然とした笑顔だった。

 そして“彼女”は店の外に飛び出す。すでに中で何があったのか、ある程度観察していたのであろう影が、すぐさま“彼女”へ向かって飛んでくる。獲物の数をいちいち確認する必要はない。獲物が多くても少なくても、“彼女”がすることは同じだからだ。

 それは一瞬の出来事だった。肩裾に大輪の牡丹をあしらった着物を優雅に揺らして、“彼女”の手が踊るように舞った。

 それだけだった。

 “彼女”の手から放たれた針は、襲撃者達のどの武器よりも早く、彼らの命を奪っていた。苦痛が長引かないことを、彼らは喜ぶべきだろう。喜ぶのがあの世だったとしても、それはたいした不幸ではない。“彼女”は手ごたえのなさを少し不満に思いつつ、店内に戻った。

「終わったわ、ユダ」

 店に残ってしまっては困る客の死体も始末したあとで、“彼女”は二階へ上がり、着物を脱いで寝巻きにしている襦袢へと着替えた。“彼女”は着物を着るのに慣れていない。だから適当に体に巻きつけるだけになってしまったが、それを不審に思う人間はいないだろう。着替えた“彼女”はベッドに横になり、目を瞑って“戻った”。

「あぁ、ありがとう、エリザベス」
「相変わらず鮮やか、かつ素早いお仕事。感激するね」

 それを迎える二つの声が響いた暗闇には、ひとつの棺が中央に、その周囲には円形に椅子が並べられていた。どれも同じ形の椅子で、長い背もたれが特徴的なのっぺりとした意匠の椅子だった。

 椅子の数は全部で二十四。その殆どは空席だ。中央に置かれた硝子の棺には死んだように眠る、女性とも男性ともつかない人が腹の上に手を組んだ形で横たわっている。閉じられた目蓋を縁取る睫は長く、優美な曲線を描いている。肌は透き通るように白く、組まれた指先まで染みひとつ、ほくろのひとつさえ見えなかった。

 そんな棺を囲んで並べられた椅子に、腰掛けている人物が三人。それぞれは同じ七つの空席を挟んで等間隔に座っていた。

「シンディがようやく眠りに入った。クマのことも言っているし、ルカと同化できたようだな」

 眠っている人物の頭の方に座っている青年が口を開いて言った。輝くような光の中にある棺と違って、椅子に腰掛けているそれぞれの人物はお互いの顔を判別できないほど暗い空間にいた。

「残ったのはあたし達三人だけね。それにしても、ユダ。あのクラッシャー、あのままルカの側にいさせて良いの?」

 最初に言葉を発した人物を中心として考えれば、その左手側に座っているのが“彼女”だった。“彼女”は椅子の上で組んでいた足を、優雅に組み直した。“彼女”の英語は少しオーストラリアの訛りを感じさせるもので、それに答えたのははっきりしたアメリカ英語だった。

「同感だ。あいつは何か知っているぜ」

 その声は三人の中で一番若い。

「そうだね……。マイク、君に任せる。あの男の素性を探って、“エデン”と関係のある人間だったら……」
「殺す?」

 その笑いさえ含んだ問いに、青年は闇の中で頷いたようだった。

「流華がこれ以上懐く前にね」

 青年の答えに、今度は猫背の少年が頷いた。

「大賛成」
「ベス、できるな?」
「多分ね。あの男は流華を傷つけられない。ただ……」

 “彼女”は長く伸びた爪を噛む。それが“彼女”が考える時の癖だった。

「ただ?」
「あたし達を壊すことはできるかもしれないわ。破壊屋と名乗るからには、あたし達だけを壊すことができるかもしれない。ユダ、流華に近いあんたは別として」

 “彼女”は正直それを恐れていた。“彼女”の役目が終わる前に、あの破壊屋という男によって、“彼女”の存在を消されてしまうことを。消えることは別段構わないのだ。ただ、その時が来れば、ということだが。だから“彼女”としては、自分でも苛つくほど慎重にならざるを得ない。あの男に関して。

「なるほど、その可能性は俺も考えるね。それに破壊屋以外にも厄介な坊やが動いているぜ」
「走査屋か」
「流華に興味があるらしい。わざとらしい走査をしているから、どうやら隠す気はなさそうだがね」

 “彼女”や少年の意見を、青年は内心でどう思ったのだろうか。“彼女”は流華の行動や心は共有できても、青年の心は共有できない。青年は“彼女”達の中でも特殊な立場にいる。彼だけが、全てを鳥瞰できているはずなのだ。

「……そこは放っておいても破壊屋が動くだろう。無駄にこちらが動いて、君の存在を悟られても面倒だ。マイク、“アダム”は無事だろうな」

 だから“彼女”は青年の決定には逆らわない。それは猫背の少年も同じだ。

「まだまだ坊やの腕じゃあ、あれには触れられない。そのために俺がいるんだから、抜かりはないさ」

 青年が大きく息を吐いたのが伝わってきた。闇の中でも、闇に慣れた“彼女”達には何もかもが良く見えている。“彼女”は離れた席から、青年が不敵に笑ったのを見てとった。

「君達の役目はまだ終わらない。必要であれば、破壊屋には僕が対応しよう」
「いいの?」

 貴方が出ても。という意味を込めて“彼女”が問うと、青年の笑みはますます濃くなったようだった。

「適役、というのが僕らの存在意義だ。その役に見合ったものがそれを行う。全ては――」

 そう、“彼女”達の存在さえ含めて、全ては――。

『流華を守るために』

 三つの声はまるで一人の声のように重なり合って闇に響いた。

参考文献

富田修二:グーテンベルク聖書の行方.図書出版社.東京.1992.3.20.巻末にヨハネス・グーテンベルク年譜、参考文献リスト、事項索引および人名索引あり。
富田修二:さまよえるグーテンベルク聖書.慶応義塾大学出版.東京.2002.8.10.

慶應義塾大学の四十二行聖書はWebでオンライン・ファクシミリ版を見ることができます↓(当たり前ですが現物も完本で存在しています)
http://www.humi.keio.ac.jp/jp/index.html

Back / 100題Top